静岡の無意識(特任教授 酒井敏)
静岡県立大学グローバル地域センター特任教授 酒井敏
地方都市の人口減少は地域経済にとっても、文化継承にとっても深刻な問題である。静岡市も人口減少は深刻で、政令指定都市の中では唯一70万人を切ってしまった。特に若者にとって静岡は魅力に乏しく、東京などの大都会に流出してしまうことが問題視されているが、一方で、静岡にきた移住者の話を聞くと、「静岡は面白い」という人が多い。私自身、静岡市清水区に生まれ、大学生時代から京都で半世紀近く生活して、最近再び静岡にかかわりを持つようになった人間から見ても、静岡は決してつまらない街ではない。むしろ、先の読めない不確実な時代をリードする可能性を秘めた、とても有望な地方都市であると思う。ただ、それが静岡で生まれ育った人々には認識しづらく、地元を過少評価しているのではないかと思われる。ここでは、そんな隠れた静岡の魅力について書きたいのだが、一見、静岡を批判しているように読めてしまうかもしれない。しかし、決してそんなことではなく、静岡を高く評価する話なので、気を悪くせずに最後までお付き合いいただきたい。
静岡で生活する時間が増えて、まず気になったのは、静岡の飲食店では不定休が多いということである。定休日は決まっているものの、営業日であるはずの日に行ってみると休んでいることがままある。そんな店に再訪した際、「先週も来たんだけどね」と言ってみたところ「あ、ごめん。その日、花見に行っていた」という返事が返ってきた。正直、これにはとても驚いた。関西でこんなことを言ったらまず炎上である。仮に、本当に花見に行っていたとしても、身内の不幸など、やんごとなき理由をでっちあげるのが、むしろ礼儀というものである。実際、京都でこの話をしたら100%「ありえん!」という反応が返ってきた。ところが、静岡では「やいやい、しょんねーな」で済んでしまう。このような時、静岡の人は店に怒りをぶつけることもなく、さらっと次の行動(別の店を探すなど)に移ってしまうのである。店主にしてみれば、「今日は仕事をしている場合じゃない。花見だ!」と思って、その心に素直に従っても、社会から排除されない。これは素晴らしい社会ではないか。
50年ほど前の七夕の夜、静岡は猛烈な豪雨に見舞われ、死者27名、床上浸水1万戸以上の大災害に見舞われた。この時の様子を描写した「ちびまる子ちゃん」の漫画がある。ここには、1階が水没し屋根に避難した住民の姿が描かれているのであるが、全く悲壮感が感じられない。間違いなく大変な状況であるにも関わらず、どこかその状況を楽しんでいるように見える。「遊ぶ」ということは「予期せぬことが起こった時に使えるかもしれない駒」を蓄える行為である。特定の目的に向かって無駄なく効率的に行動することしか考えていないと、予想外の事態に遭遇した瞬間に詰んでしまう。危機的状況にこそ、遊ぶ余裕、または遊んだ経験が必要なのである。もちろん、命があっての話ではあるが、静岡の人にはそんな野性の本能的な行動が残っているようにも見える。
静岡は災害の多い地域でもある。よく自然豊かな土地といわれることがあるが、食料自給率は16%とかなり低く、全国ワースト10に入る。そもそも、徳川家康がなぜ駿府に城を作ったのかといえば、急峻な山や川に囲まれて守りやすいのが一つの大きな理由である。がけ崩れや洪水が起こりやすく、それが狭いながらも平野を形成するということを考えると、最初から肥沃な土地が広がっていたとは思えない。温暖な気候で凍え死ぬリスクは低いかもしれないが、それ以外はかなり厳しい環境にも見える。そこに職人を連れてきて町を作ったので、思い通りにならないことも多かったに違いない。せっかく作ったものが自然の力で壊されても「やいやい、しょんねーな」と言って修理したり、別のものを作ったりしてきた歴史の上に今の静岡があるのではないだろうか?今では、様々な農作物から工業製品まであらゆるものを生産できる「豊かな土地」であるが、それは最初から自然に与えられた豊かさなのではなく、人々が試行錯誤の上に作り上げてきた豊かさなのではないかと思うのである。
文化人類学者のレヴィ=ストロースは、今から半世紀以上前にいわゆる未開人の社会を観察して「野生の思考」という本を著した。その中で彼は、未開人の文化が西欧の文化に対して劣っていたり、遅れていたりするわけではないと主張し、当時の西欧社会に衝撃を与えた。当時「進んでいる」と考えられていた西欧の思考方法が、まず目的を定めてそれに必要なモノを逆算的に用意し、計画的に実行する「エンジニアリング」であるのに対し、未開人の思考は、目の前にあるものを使って試行錯誤しながら、順算的に何ができるか考えていく「ブリコラージュ」である。思考の順番は異なるが、自然界のなかで生きていくうえで優劣はないというのがレヴィ=ストロースの主張である。
一方近年、経営学者であるサラス・サラスバシー教授が、成功した起業家に見られる思考プロセスや行動様式を体系化し、エフェクチュエーションという理論を提唱した。これが、レヴィ=ストロースの「野生の思考」に極めてよく似ている。そもそも起業家は、だれも考えたことない新しい事業を興すことが仕事なので、予測が難しい自然の中で自らの生活する方法を編み出す人々と思考パターンが似ているのは当然かもしれない。現代社会を変革する上でも、緻密な論理的思考よりも、本能的な「野生の思考」のほうが有効なのだ。
話を静岡に戻すと、静岡の人々の思考パターンは、レヴィ=ストロースのいう「野生の思考」に近いのではないかと感じる。よく静岡の人は「危機感がない」と言われるが、そもそも危機に対するスタンスが違っているということではないかと思う。危機感とはエンジニアリング的な計画がうまくいかないところから生まれる。どうなるかわからない状況で危機感だけ募らせても、焦って視野が狭くなり、かえっていいアイデアは浮かばない。具体的に危機が見えるまでは、あまり先読みせず、興味本位の行動(遊び)で視野を広げておくほうが、危機を乗り切るには有利かもしれない。
実際、静岡の産業の歴史を見ると、血の滲むような努力というより、自然体の柔軟な発想で困難を乗り越え、様々な産業を発展させてきたように見える。かなり画期的なアイデアも何食わぬ顔でしれっと組み込まれていて目立たない。おそらく当事者も、そのすばらしさをさほど意識していないのではないかと思われる。なぜ、そんなことが「さらっと」できてしまうのかというと、普段から目的外の行動をとること(遊び)にあまり抵抗感がなく、常識的な方法以外に様々な可能性があることを知っていて、問題に直面した時のアイデアの手持ちが多いからではないかと思う。これは、静岡がもともと江戸時代の隠居の場所、また明治時代の元老の別荘地として(効率重視の仕事場としてではなく)使われたことも関係しているのかもしれない。
もちろん、すべての静岡のすべての人々がこのような文化を持っているわけではなく、明らかに別の文化も存在する。上記のような文化は職人さんのような「現場」の世界で特に強く感じる。ただ、これが社会全体に独特の「ゆるさ」をもたらしていることも間違いないだろう。AIが急速に発達して、社会が大きく変わろうとしている今、いかに人間らしく生きていくかということが問われている。そんな中で、この静岡の独特の文化は、時代の最先端を行っているのではないかと思うのである。静岡の人にとって、あまりにも当たり前で、なかなか気が付かないことかもしれないが、これをはっきり認識するだけで、静岡がとても楽しく魅力的な街になり、人口減少どころか人々があこがれて集まってくる地域になり得るのではないだろうか。
静岡で生活する時間が増えて、まず気になったのは、静岡の飲食店では不定休が多いということである。定休日は決まっているものの、営業日であるはずの日に行ってみると休んでいることがままある。そんな店に再訪した際、「先週も来たんだけどね」と言ってみたところ「あ、ごめん。その日、花見に行っていた」という返事が返ってきた。正直、これにはとても驚いた。関西でこんなことを言ったらまず炎上である。仮に、本当に花見に行っていたとしても、身内の不幸など、やんごとなき理由をでっちあげるのが、むしろ礼儀というものである。実際、京都でこの話をしたら100%「ありえん!」という反応が返ってきた。ところが、静岡では「やいやい、しょんねーな」で済んでしまう。このような時、静岡の人は店に怒りをぶつけることもなく、さらっと次の行動(別の店を探すなど)に移ってしまうのである。店主にしてみれば、「今日は仕事をしている場合じゃない。花見だ!」と思って、その心に素直に従っても、社会から排除されない。これは素晴らしい社会ではないか。
50年ほど前の七夕の夜、静岡は猛烈な豪雨に見舞われ、死者27名、床上浸水1万戸以上の大災害に見舞われた。この時の様子を描写した「ちびまる子ちゃん」の漫画がある。ここには、1階が水没し屋根に避難した住民の姿が描かれているのであるが、全く悲壮感が感じられない。間違いなく大変な状況であるにも関わらず、どこかその状況を楽しんでいるように見える。「遊ぶ」ということは「予期せぬことが起こった時に使えるかもしれない駒」を蓄える行為である。特定の目的に向かって無駄なく効率的に行動することしか考えていないと、予想外の事態に遭遇した瞬間に詰んでしまう。危機的状況にこそ、遊ぶ余裕、または遊んだ経験が必要なのである。もちろん、命があっての話ではあるが、静岡の人にはそんな野性の本能的な行動が残っているようにも見える。
静岡は災害の多い地域でもある。よく自然豊かな土地といわれることがあるが、食料自給率は16%とかなり低く、全国ワースト10に入る。そもそも、徳川家康がなぜ駿府に城を作ったのかといえば、急峻な山や川に囲まれて守りやすいのが一つの大きな理由である。がけ崩れや洪水が起こりやすく、それが狭いながらも平野を形成するということを考えると、最初から肥沃な土地が広がっていたとは思えない。温暖な気候で凍え死ぬリスクは低いかもしれないが、それ以外はかなり厳しい環境にも見える。そこに職人を連れてきて町を作ったので、思い通りにならないことも多かったに違いない。せっかく作ったものが自然の力で壊されても「やいやい、しょんねーな」と言って修理したり、別のものを作ったりしてきた歴史の上に今の静岡があるのではないだろうか?今では、様々な農作物から工業製品まであらゆるものを生産できる「豊かな土地」であるが、それは最初から自然に与えられた豊かさなのではなく、人々が試行錯誤の上に作り上げてきた豊かさなのではないかと思うのである。
文化人類学者のレヴィ=ストロースは、今から半世紀以上前にいわゆる未開人の社会を観察して「野生の思考」という本を著した。その中で彼は、未開人の文化が西欧の文化に対して劣っていたり、遅れていたりするわけではないと主張し、当時の西欧社会に衝撃を与えた。当時「進んでいる」と考えられていた西欧の思考方法が、まず目的を定めてそれに必要なモノを逆算的に用意し、計画的に実行する「エンジニアリング」であるのに対し、未開人の思考は、目の前にあるものを使って試行錯誤しながら、順算的に何ができるか考えていく「ブリコラージュ」である。思考の順番は異なるが、自然界のなかで生きていくうえで優劣はないというのがレヴィ=ストロースの主張である。
一方近年、経営学者であるサラス・サラスバシー教授が、成功した起業家に見られる思考プロセスや行動様式を体系化し、エフェクチュエーションという理論を提唱した。これが、レヴィ=ストロースの「野生の思考」に極めてよく似ている。そもそも起業家は、だれも考えたことない新しい事業を興すことが仕事なので、予測が難しい自然の中で自らの生活する方法を編み出す人々と思考パターンが似ているのは当然かもしれない。現代社会を変革する上でも、緻密な論理的思考よりも、本能的な「野生の思考」のほうが有効なのだ。
話を静岡に戻すと、静岡の人々の思考パターンは、レヴィ=ストロースのいう「野生の思考」に近いのではないかと感じる。よく静岡の人は「危機感がない」と言われるが、そもそも危機に対するスタンスが違っているということではないかと思う。危機感とはエンジニアリング的な計画がうまくいかないところから生まれる。どうなるかわからない状況で危機感だけ募らせても、焦って視野が狭くなり、かえっていいアイデアは浮かばない。具体的に危機が見えるまでは、あまり先読みせず、興味本位の行動(遊び)で視野を広げておくほうが、危機を乗り切るには有利かもしれない。
実際、静岡の産業の歴史を見ると、血の滲むような努力というより、自然体の柔軟な発想で困難を乗り越え、様々な産業を発展させてきたように見える。かなり画期的なアイデアも何食わぬ顔でしれっと組み込まれていて目立たない。おそらく当事者も、そのすばらしさをさほど意識していないのではないかと思われる。なぜ、そんなことが「さらっと」できてしまうのかというと、普段から目的外の行動をとること(遊び)にあまり抵抗感がなく、常識的な方法以外に様々な可能性があることを知っていて、問題に直面した時のアイデアの手持ちが多いからではないかと思う。これは、静岡がもともと江戸時代の隠居の場所、また明治時代の元老の別荘地として(効率重視の仕事場としてではなく)使われたことも関係しているのかもしれない。
もちろん、すべての静岡のすべての人々がこのような文化を持っているわけではなく、明らかに別の文化も存在する。上記のような文化は職人さんのような「現場」の世界で特に強く感じる。ただ、これが社会全体に独特の「ゆるさ」をもたらしていることも間違いないだろう。AIが急速に発達して、社会が大きく変わろうとしている今、いかに人間らしく生きていくかということが問われている。そんな中で、この静岡の独特の文化は、時代の最先端を行っているのではないかと思うのである。静岡の人にとって、あまりにも当たり前で、なかなか気が付かないことかもしれないが、これをはっきり認識するだけで、静岡がとても楽しく魅力的な街になり、人口減少どころか人々があこがれて集まってくる地域になり得るのではないだろうか。